ふつう
この前最後のブログになるところでしたがならなかったのでつづけます。
ほんとはあまり働いちゃいけないのですがフリーランスに有給も休職の手当てもないんです。働かなかったら収入は0になります。なのでいうことを聞けないのです。
きのうはとても大きな組織で貴重な仕事をいただきました。
誓約書書かされたくらいなのでここにはかけないのですが、とりあえず学校現場の闇というのを見れてとても良い経験となりました。
今更だけど先生たちって大変なんだな、こんな大変なのに素晴らしい指導をしてくれたんだなと思いました。とくにわたしは先生は当たりばかりで、厳しさの中の愛情をもった先生ばかりだったのでとても感謝しています。
ただ、不思議なのは先生の負担が多いというのであれば学校現場にキャリア教育はキャリコン、部活はスポーツトレーナーとかにできないのかな。できないのかなというか、実際わたしは何度もキャリア教育の授業やらせてもらったけどなぁ。
きのうは間を取り持つ仕事だったので余計な持論もいえずでしたがまぁ勉強になりました。
あとかんじたことは、その大きな組織の食堂をつかわせていただいたのだけど、驚いたのがほぼみんな一人でご飯たべてた。携帯を見ながら。働いている人もロボットみたいだった、大きな組織できっと給料もいいのだろうけどわたしはあそこで働けないだろうなぁと思った。
それと駅でお腹を抑えてうずくまってる女性がいたのだけど誰一人声かけないのも驚いた。確かに朝の忙しい時間かもしれないけど、
駅員さんを呼ぶことくらいはできる。
私も時間なかったので駅員さん呼んで連れて行ってもらっただけだけど。
泣いてた。可哀想だった。
優しくない世の中だと思った。
正直人の心配をしている場合ではなくてわたしもいろいろと来年に持ち越しとなった。
医療費のおかげで大赤字。げんきになったら、3倍くらいは稼ぎたい。けど、身体にまだその元気がない。
それくらいに戻れるのかもわからない。
あと、お医者さんはまず患者の環境や状態をしっかりヒヤリングしてからアドバイスをしてほしいものだとおもった。あまりひとりにならないように、買い物や趣味はいつも通り行うようにとか。自分がおなじことしていないかきをつけようとおもった。
なににおいても、信じるということと思い込むということの違いがわからない。矢印が向いてる方向の違いでしょうか。
本に書いてあった
>みんなと同じようにやってもダメだったということは明るい夜明けのようなスタートラインである
わたしはこのタイプだと思う。
何よりも打ち込んできた仕事がこれだった。
人の言う通りにしてうまくいったことはない、みんなと同じようにしてうまくいったことがない、
そうやって欲しいチャンスをふつうではないやり方でもっとまっすぐで強い気持ちで掴み取ってきた気がしていて、
なににおいても通常のステップを踏むと言うやり方がわたしではないんだとおもった。
仕事の獲得から営業方法まで全部。
今のこの状況だってとんでもないこと。
いきたい会社にふつうにエントリーして面接して採用される。その、ふつうに見合う価値が自分にはないことをよく理解してる。ふつうでは自分が採用されない事を理解してる。
仕事との出会いはけっこんと同じだとよく言うけれど、今までどれも変なルートでしごとを獲得してきた。それは普通のルートじゃないから出会えたのだとおもう。
体調を崩ししごとをほぼ失い、焦ってそのふつうに走って、ふつうをもとめればもとめるほどうまくいかない。そんなことに最近気づいた。
わたしにとってはお金がどうこうではなくてしごとはとてもだいじ。そのだいじを失ってなかなか立ち直ることができない。でも一番大切なのはおみせ、これが本当は一番大切なのだから落ち込むことなんて本当はないこともわかってるけどこうなるのは、まだ生まれたばかりでこどものような状態に不安があるのだとおもう。いずれにしろこのみせだって、ふつう、ではない。
いろんなひとのキラキラした投稿を見て、いいなぁっておもうこともある、けどそれはわたしにはあわないんだとおもう。
ふつうではないことがわたしにはあってるんだとおもう。
ふつうでありたい、そうおもいはじめると心がどんどん沈んでいく。
本質を考えるとか、信じる心を持つとか、生きるとか死ぬとか、そういうことを強く心に留めておくと本当は気持ちが沈みようがないんじゃないかとおもうと、まだまだだなぁとおもう。
大切なものへ向かう道はお城に向かう城下町のようにごちゃごちゃしている、これお守りのようにずっと持ってきた言葉。
最近忘れてた。
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