居場所をさがす
居場所がない、居場所がない、
というひとがよくいるけれど、いうのは別に結構です。
でもそういうほんとうに大切なことはわたしの場合、この人にならというひとにしかいわないです。それでたいした返事が来なければあ〜言う人を間違えた、それだけです。
辛口なことを言うと居場所はないなら作るもの。
カウンセリングと切り離していえば単純な甘え、だとわたしはおもいます。
そうやってだれかがいないと、
わたしはひとりぼっち、
と悲劇のヒロインだとおもっている以上居場所なんかできません。
わたしも子供の頃は居場所がない
自分なんて必要がないと思っていたけど、
結局それで甘えることもできず近所のおうちに転がり込んでお手伝いしたり、いろんな話をしたり、自分の居場所や存在価値を見出そうと自分なりに頑張ってきました。
すごくいい経験だと思っています。
今だって別にかんぜんかんぺきな自分の居場所はないです。でもそれを探したり作ろうと、いろんな人に会ったり挑戦したりし続けるし怖いけど心を開き始めたら本音を話すようにがんばったりするわけで、
別にそうしろということではないですし勿論それが正しいというわけではないんですが、依存するものを探し求め続ける以上、見えてくるものなんてないんじゃないかというのが見解です。
同時にそういう依存に手を貸すことも相手を不幸にすることだとわたしはそう思います。
過去に私も依存に手を貸してきてそれは愛情でもなんでもない同情だと4年くらいかかって気づきました。
それなりの責任感があれば別だけど依存されるわたし、おれみたいなのに酔うほど薄っぺらい人間関係はないとおもいます。
カウンセリングの基本は、受容、共感、一致、それはわすれてはいけませんがひととして、本当の愛情とか大切にしないといけない人間関係ってなにかということです。
共依存についてのディスカッションのこともあり色々考えさせられました。
そしてひととひとの引き合わせっていうのはやっぱりあるので私個人としての交友関係においてそういう依存的な関係は避けていきたいです。
親友みたいないろんなことを超えて自分にとってほんとうに大切なひとはそういうあれこれは別の話ですが。一生守り抜くくらいの気持ちなら。そう思える人ってなんだろう。それはそれで不思議。
長野、寒いです。
おわり
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