喜怒哀楽の共有
とても具合が悪くて動けない
体調を崩すたびについに死ぬときかもしれないとおもう
昨日は高校の吹奏楽部のなかまとそのチルドレンが来てくれて大変賑わいました。
高校の時からみんな顔も中身も変わらないのに環境がどんどん変わっていくのが不思議な感じでした。
最近これまでを振り返ることが増えたけれど、人生で最も熱い部活だったり激しい喜怒哀楽を共にしたから続いてる関係なんだろうなぁと思いました。
なんであの頃はあんなに頑張れたかというとみんなと楽器を吹くことが本当に楽しくて好きだったし安心していられる居心地の良い場所だったからだとおもいました。
家に居場所がなくても勉強出来なくても全然へいき、悩みもなかった。笑い転げるような日々、本当に幸せだった。
一度だけ人間をやめてアリになりたいって部活の子と合奏に出ないで庭で号泣したことあったなぁ、あれなんだったかな。
大人になるとそういう場所を見つけるのは難しくてあの頃は良かったではなくてあの頃のように頑張れる場所や気持ちを大人になっても持っていたいということが今の意味だとおもいました。
みんなはいつもわたしの幸せを願って幸せであることを喜んでくれる。わたしもみんなの幸せを願ってる、
みんなもみんなの子供も本当に幸せそうで、よかった。
あと、きのうはお客様でものすごく絶賛してくれた方がいた、ぶっ飛んでると。
お店のこともわたしの働き方についてもとても応援してくれた、こういうのを社会に広げてほしいと。
リピーターのお客様もいた、嬉しかった。
にしても20代後半から悲観的な勘違いや思い込みが増えた。その誤解が数年後にとける、それじゃおそい。
これをこの思い込みを非論理的信念という
そのときその瞬間の大丈夫だっていう確信はことごとく壊れるけれどせめてもの救いは運がいいこと。
今日もいろんなひとがきてくれる、たのしみ。
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